啓発ポスターと条例の区別がつかない議員たち/努力義務は法的義務ではないのか

香川県のケース

 

山形県のケース

  • 一方、山形県議会は、7月5日、山形県笑いで健康づくり推進条例を制定した。その5条によれば、「県民は、笑うことが健康にもたらす効果について理解を深めるとともに、 1日1 回は笑う等、笑いによる心身の健康づくりに取り組むよう努めるものとする。」とされている。
  • この条例は、山形大学の研究結果を根拠としているようである(山形県で1日1回笑うことが努力義務に。「笑うに笑えない」条例と反発も | ハフポスト NEWS)。この論文は、笑いの頻度が年齢、性別、喫煙、飲酒状況、高血圧、糖尿病等の既知の危険因子とは独立に死亡率・心血管疾患発症率に関連していることを示している。一方で、笑いがどのような状況でなされたのかは考慮されていない(「どのくらいの頻度で声を出して笑いますか」という質問票による調査を行ったのみであるとのことである)。したがって、努力義務を課すことが健康を促進するかどうか(言い換えれば、強制された笑いであっても役に立つのか)は、明らかではない。

 

啓発ポスターと条例の区別がつかない議員たち

  • なぜこのような立法がされるのか。その背景の1つは、立法行為の本質が理解されていないからだと思われる。政府と市民が協調して行動するとき、そのコミュニケーションの形式には、さしあたり、①立法(やそれを具体化する行政処分や司法処分)、②契約、③任意のコミュニケーション(その一部は行政指導と名付けられる)の3種類がありうる。①②と③の違いは法的拘束力の有無であり、①と②の違いは両者の合意に基づくか、それとも政府の一方的な意思表示によるかという点にある。①は政府にのみ認められた方法であり、かつ、政府の存在意義である。
    • つまり、コミュニティ構成員全員を(最終的には)一方的に拘束することができる「特別な存在」がない状態では様々な問題が生じ、コミュニティの構成員の共通の利益が害される。そのような状態を脱するために、人々はそのような特別な存在としての政府を設立した。
  • 逆に言えば、政府が立法権限を行使し、市民を拘束することが許されるのは、政府が介入しなければ解決できない問題、つまり、政府が何かを強制することによって達成可能であり(社会には強制したのでは意味がない問題はたくさん存在する)、かつ、それ以外では達成できない問題が存在する場合に限られる。そのような問題が存在せず、ただ政府がその考えを(一定の権威付けをもって)述べたいのであれば、啓発ポスターにでもすればよいし、「硬い」文書にしたいなら議会の調査報告書にでもすればよい。上記の2つの立法例には、このことが当てはまると思われる。
  • 地方議会には、このような立法行為の本質についての基本的な理解が欠けているところが少なくなく、そのことが上記のような立法に繋がっている可能性があるのではないか。

 

努力義務は法的義務ではないのか

  • ところで、上記の2つの立法は、いずれも努力義務を課すという形を取っている。
  • 一般に、努力義務は法的義務と対比され、法的義務ではないと考えられている(例えば消費者庁による公益通報保護法逐条解説の同法10条に関する部分)。そして、参議院法制局の解説によれば、努力義務は、①規定自体が理念的・抽象的であるなど強制になじまない場合、②強制するまでの合意が得られない、時期尚早であるというような場合に採用されるとされている(元ネタと思われる論文はこちら)。
  • しかしながら、義務の内容が対象者の努力に依存しているからといって、法的義務ではないとは言えないと思われる。例えば取締役の善管注意義務は、取締役の努力に依存しているが、明らかに法的義務である。「努めなければならない」という語感から、「やろうとしたんだけど無理でした」と言えば免責されると思われているのかもしれないが、そうではないはずである。
  • また、エンフォースメントの欠如も、法的義務であることを否定する理由にはならないと思われる。そもそも行政法においては、エンフォースメントを欠く規定はいくらでもあるが、それらが一律に法的義務でないとは考え難い。また、例えば刑法175条は、わいせつ物(と政府が主張するもの)の頒布等を禁止することによって表現の自由を侵害し、当該行為を行った者に懲役刑を科すことによって身体の自由を侵害するものであるが、前者のみでは法的義務を課したことにならないとは言えないだろう。
  • 以上から、努力義務も法的義務の一種なのであり、違憲訴訟が提起された場合には、裁判所は、そのことを前提に訴えの利益や原告適格を判断し、比例原則を適用するなど、立法行為に統制を及ぼしていくべきだと思われる。