読売新聞の古沢由紀子氏の記事「高校入試の合否を決める内申書に直結する学習評価の難しさ。中学教師が悩む生徒の「主体的な態度」測定:読売編集委員が考察 : 読売新聞」を読んだのですが、個人データ保護あるいはデータプライバシーを考えるうえで示唆的だなと思ったのでメモしておきます。
西岡氏の報告
概要
記事(まずはそちらを読まれるとよいと思います)に紹介されているとおり、「今後の教育課程、学習指導及び学習評価等の在り方に関する有識者検討会(第11回)」(配布資料、委員名簿)において、学習評価に関して、西岡加名恵氏が意見を述べられています(該当箇所へのリンク)。
西岡氏の意見は、①教育課程の整理と役割分担の明確化、②パフォーマンス評価の推進、③教科における成績づけ(評定)の在り方、④カリキュラムと評価の改善を促進する仕組みの構築からなっています。
この中で、西岡氏は、現行の学習指導要領では、(a)「知識・技能」、(b)「思考力・判断力・表現力等」、(c)「学びに向かう力・人間性等」という3つの柱で捉えられる「資質・能力」の育成が目指されており、(c)の中に、「主体的に学習に取り組む態度」が含まれるところ、この「主体的に学習に取り組む態度」は、「思考・判断・表現」の観点に統合するべきである旨述べられています。
関係部分の要旨
上記の意見に関連する発言の要旨は、以下のとおりです(該当箇所へのリンク)。
- 「主体的に学習に取り組む態度」の評価に関しては、「挙手の回数やノートの取り方など形式的な活動で評価するものではない」とされており、粘り強い取組を行おうとする側面と、自らの学習を調整しようとする側面で捉えるという方針が提案されている。
- しかしながら、実践の現場で、これらの2側面を、思考・判断・表現の観点とは別に評価しようとすれば、粘り強い取組については、やはり「形式的な活動」で見るということに陥りがちである。また、自らの学習を調整しようとする側面を見るために、「振り返り」を書かせて、それを成績づけの資料とするという形の実践が広がっている。「振り返り」を成績づけに使えば、子供たちは教師に気に入られるような振り返りを書こうとし、正直な振り返りができず、教師も「振り返り」の採点に追われて多忙化する。実際に、特にこの観点の評価について、学校現場の教師は本当に悩んでいる。特に、3観点を3分の1ずつの重みづけで評価するように指導している都道府県では、大きな混乱、困難や形骸化が生じている。粘り強さや自己調整を評価するからといって、全てを成績づけ(評定)の対象にする必要はないと考える。
- 私は、粘り強さも自己調整も大事だと考える立場だが、パフォーマンス課題に取り組もうと思えば、粘り強く自己調整しながら取り組まなければならないので、そういった側面も、パフォーマンス課題での出来栄えを見ることに含んで評価すればよいと考える。本来「思考・判断・表現」と表裏一体の「態度」をわざわざ観点に分けるとなれば、便宜上、無理に区別するということにならざるをえない。さらに言えば、本来、私たちが育てるべき「主体性」とはどのようなものであろうか。石井英真さんが整理した「主体性」のタキソノミーによると、今求められているのは、このタキソノミーにおけるより高次の部分、社会関係や対象世界を創りかえるようなエージェンシー、自分ごとの問いを深化させる中で構築されるアイデンティティーであろうと考える。同じ「主体性」といっても、外発的動機づけによって受身に表面的参加をすることとは、全く意味が異なる。
- 以上を踏まえ、「主体的に学習に取り組む態度」の成績づけについては、「思考・判断・表現」の観点に統合することを改めて提案する。そもそも、主体的に学習に取り組まないと成績を下げるぞと言われて発揮される「従順さ」は、私たちが今目指したい「主体性」だとは考えられない。教師の成績づけの悩みを減らし、児童生徒が主体的に思考・判断・表現するような授業への改善にこそ力を注ぐべきだと考える。
- なお、現在では、1人1台端末が普及し、ICTを活用した際に残る「ログ」で「主体性」を見るという言説も登場しているが、そこで捉えられるような「主体性」はあくまで低次の「主体性」にすぎない。そのようなログによる成績づけが普及すれば、教師への忠誠競争を子供たちに強い、学校の同調圧力や圧迫感を強化してしまう懸念がある。
- 「主体性」のタキソノミーでいうところのより高次の「主体性」、エージェンシーやアイデンティティー形成を促すという目標を設定するとすれば、それらについてはカリキュラム全体として育っているかを見るべきであり、「総合的な学習の時間」等での姿をポートフォリオで捉えればよいと考える。つまり、網羅的に見る発想から、最良の出来栄えを見る、あるいは、子供自身が発信する機会を保障するという発想に転換すべきである。
コメント
箇条書きで書きます。
- データプライバシーの文脈で、監視が人々の行動(特に表現の自由や結社の自由により保障された行動)を萎縮させることが指摘されてきた(例えばUnderstanding Privacy (English Edition) [Kindle edition] by Solove, Daniel J.)。また、高木浩光氏は、個人情報保護法の目的である「個人情報の適正な取扱い」を確保することにより「個人の権利利益を保護すること」(同法1条)の核心は、「個人データ処理による個人に対する評価・決定の適切性確保」であると述べている(「個人情報保護法3年ごと見直し令和6年に対する意見」及びそこに引用された論文)。評価・決定は監視を前提とし、無目的な監視というのは考え難いので、両者は意図としては同じことを言っているのだと思われる。
- 上記の西岡氏の議論は、このような体系的な監視と評価の効果を端的に表していると思われる(なお、監視と評価は性質上体系的でなければならないので、ここでいう「体系的な」は強調にすぎない)。
- そもそも近代の公教育は、国民や国家のアイデンティティを確立し、統治を可能にし、産業競争力を育成・強化するために作られた(教育は公共財と言われるのはその一面である)。つまり、教育というのはもともと国民を勤勉で従順で、できれば知能の高い集団に変化させるための人為的・介入的な営みなのであり、そこには必然的に体系的な監視と評価が伴う。
- もっとも、(上記では問題をより分かりやすくするためにネガティブに見える書き方をしたが)監視と評価が悪いわけではない。あらゆるパーソナライゼーションは監視と評価の側面を有しており、例えばマイナンバーに関連して言われる「適正な給付」、「きめ細やかな支援」、「プッシュ型支援」といったものはいずれも監視と評価を基礎に成り立っているし、教育の文脈で言われる「個別最適な学び」とか「個に応じた指導」もそうである(その人のことをよく見て考えなければその人に合わせた対応はできないというだけのことである)。重要なのは、評価と監視の意図しない効果まで含めてよく見極めて、本当に必要な範囲、適切な方法でそれを行うことである。高木氏は、個人データ保護の核心との関係で最も重要なのは、関連性の原則である旨指摘しているが(上記意見書を参照)、ここでいう「本当に必要な範囲、適切な方法でそれを行うこと」は、それと同趣旨だと思われる。
- ところで、西岡氏の報告で指摘されている問題は、契約理論でいうマルチタスク問題の側面があると思われる。つまり、主体性が大事であるとしても、評価指標としてリアクションペーパーを使用すると、誤ったインセンティブ付けが行われ、かえって主体性を損なってしまう。教師のリソースにも限界がある以上、評価指標として利用できるものにも制約があるが、その範囲でインセンティブ構造を不適切に歪曲するものが見当たらないのであれば、主体性を評価項目としないことも選択肢に入れるべきである。このように、個人データ保護の問題を認識する上では、(統計学はもちろん)経済学、特に契約理論のフレームワークが有用なことが多いと思われる。