居住実態がなくなった自治体の保険証を使用して3割負担で診察を受けた者の詐欺罪による摘発について

詐欺罪とデジタルID(健康保険の資格確認)に関して興味深い報道(保険証不正使用、医療費の支払い一部免れる 革労協主流派の女逮捕 - 産経ニュース)があったので、それについて書いていきます。まずは報道を読んだ上でお読みいただければと思います。

 

詐欺罪について

  • 報道によれば、「居住実態がない自治体が発行した国民健康保険証を都内の病院で使用し、医療費の一部の支払いを免れた」、「令和5年7~8月、福岡県久留米市を保険者とする本人名義の健康保険証を不正に使用して、自己負担金以外の医療費計約9千円の支払いを免れた」とのことである。
  • 欺罔の内容について。報道の記載からは、何が欺罔行為とされたのかは必ずしも明らかではないが、さしあたり、真実は久留米市が行う国民健康保険の被保険者の資格がないのに、それがあると偽ったことだと考えられる。市町村が行う国民健康保険の被保険者の資格は、当該市町村の区域内に「住所」を有することであり(国民健康保険法5条参照)、この住所は、実態に照らして客観的に判断される(平成4年3月31日保険発第40号各都道府県民生主管部(局)長あて厚生省保険局国民健康保険課長通知「国民健康保険の被保険者資格の喪失確認処理に係る取扱いについて」)。したがって、居住実態がある地の市町村から真正な保険証(法律上は「被保険者証」)の交付を受けたとしても、その後に当該地における居住実態が失われた場合には、被保険者の資格を喪失することになる。
  • 欺罔の方法について。久留米市が発行した保険証を提示することは、さしあたり、久留米市が行う国民健康保険の被保険者の資格があることを主張するものと理解できるから、上記欺罔の内容について、挙動による欺罔が認められると思われる。
    • 「さしあたり」としたのは、仮に後述の重要事項性が否定される場合、挙動による欺罔自体が否定されるとの解釈も成り立ちうるからである。いずれにしても、この点の解釈が結論に影響を及ぼすことはない。
  • 重要事項性について。本件で考慮を要するのは、被疑者が提示したとされる保険証は真正なものだったということである。保険証は交付時点での被保険者の資格を証明するにすぎず、保険医療機関の担当者がいくら注意深く保険証を確認したところで、居住実態が失われていることを見抜くことはできない(この点で偽造のケースと異なる)。したがって、そのような措置を取っていたからといって、居住実態が事後的に失われたケースでは、重要事項性が認められないのではないか、との議論がありうる(最判平成26年3月28日刑集68巻3号582頁参照)。もっとも、これに対しては、住所の変更については、届出義務が課されているから(国民健康保険法9条1項、国民健康保険法施行規則2条1項)、居住実態が事後的に失われた場合には、保険証は速やかに回収されることが予定されおり、その結果、(実際にそうなっているかは別として)保険医療機関に提示される保険証は概ね提示時点での被保険者の資格を反映していることが前提とされている、したがって、社会通念に照らせば、保険証は提示時点での被保険者の資格を証明するものでもある、との反論が成り立ちうる。
  • 結果について。健康保険をめぐる法律関係は必ずしも明らかではないが、保険医療機関が被保険者の資格がない者に療養の給付を行った場合、保険医療機関は保険者に対して診療報酬を請求することができないと解されているものと思われる(この点の当否については後述する)。そうであるとすれば、損害を被るのは保険医療機関であるから、保険医療機関を処分権者=被害者とし、「自己負担金以外の医療費」相当額の債務免脱を不法利得とする2項詐欺と構成することには違和感はない。

 

アイデンティティ検証とリスク負担

  • 国民健康保険による保険診療は、市町村が保険者、住民が被保険者となり、市町村が療養の給付を行う(国民健康保険法36条1項1号)というのが基本的な構造であり、これに、保険医療機関が療養の給付を担当する(同法40条1項)という関係が加わっている。被保険者は、療養の給付を受けるときは、保険医療機関に一部負担金(いわゆる3割負担)を支払う義務を負い(同法42条1項)、保険医療機関は、これを受領する義務を負う(同条2項)。療養の給付に要する費用のうち、一部負担金相当額を控除した部分(つまり残り7割の部分)については、市町村が保険医療機関にこれを支払わなければならず(同法45条1項)、この支払い及びそのための審査は、審査支払機関(社会保険診療報酬支払基金又は国民健康保険団体連合会)に委託される(同条5項。法律上は自ら処理することも妨げられない)。ここでは、療養の給付をすべき義務を負っているのはあくまで保険者であり、保険医療機関はその履行補助者にすぎない。
  • また、保険医療機関は、保険者との「公法上の契約」に基づき(厚生労働省保険局医療課医療指導監査室「保険診療の理解のために【医科】(令和6年度)」)、被保険者に療養の給付を行うべき義務を負っていると思われるところ、保険医療機関と被保険者の間に事前の関係は必ずしも存在しないから、保険医療機関は保険者が構築する本人確認方法に資格確認(ひいては療養の不正受給による損害を回避できるかどうか)を全面的に依存している(つまり、保険医療機関からすれば保険者(国)が紙の保険証という脆弱な本人確認方法を存置しているがために生じた損害を負担させられている)。一方で、不正受給は一定の確率で発生するものであるところ、保険者はこのリスクを(適切な本人確認方法を採用することによって)低減し、残存リスクを分散する能力を有している。
  • これらのことからすると、医療機関が所定の本人確認措置を取った場合に、それでも生じる損害を保険医療機関に負担させることは、本来的に不公正であり(保険者による優越的地位濫用である)、立法論としては保険者が負担すべきなのではないか。
    • 「立法論としては」と述べたが、保険者ー保険医療機関間の公法上の契約の内容は明らかではないが、仮に私法関係であれば、委任事務を処理するため自己に過失なく損害を受けた受任者は、委任者にその賠償を請求できるとされており(民法650条3項)、この規律が普遍的な条理の表れであるとすれば、「公法上の契約」についても同様に解する余地はあると思われる。
    • 「保険者による優越的地位濫用」に関して、病院開設中止勧告事件判決は、病院開設中止勧告(それに従わない場合、都道府県知事は病院開設を不許可とすることはできないが、厚生労働大臣(地方厚生局長)は保険医療機関としての指定を拒否することができる)の取消訴訟を認める前提として、「いわゆる国民皆保険制度が採用されている我が国においては、健康保険、国民健康保険等を利用しないで病院で受診する者はほとんどなく、保険医療機関の指定を受けずに診療行為を行う病院がほとんど存在しないことは公知の事実であるから、保険医療機関の指定を受けることができない場合には、実際上病院の開設自体を断念せざるを得ない」と述べている。また、公正取引委員会「優越的地位の濫用に関する独占禁止法上の考え方」は、濫用行為の基準として、著しい不利益と並んで、あらかじめ計算できない不利益に言及しているところ、医療機関が所定の本人確認措置を取った場合に、それでも生じる損害を保険医療機関に負担させることは、まさしくあらかじめ計算できない不利益だと思われる。
  • なお、以上の議論は、クレジットカード取引における不正利用のリスク分配(ライアビリティシフト)に着想を得たものである。

 

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