昨日付の映画「宮本から君へ」に対する助成金不交付決定を取り消した判決について書いていきます。
本ノートはディスカッションを目的としており、かなり簡略な表現によっています(画面分割して横に判決文を開いた上でお読みいただくのがよいと思います)。
https://www.asahi.com/articles/ASRCJ62RYRCHUTIL02R.html
https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=92502
1
裁判体は第2小法廷(尾島、三浦、草野、岡村の各裁判官。戸倉長官は関与しません)で、全員一致です。補足意見もありません。
事実関係は判決文のとおりです。
本判決の実質的判断部分は、以下からなっています。
裁量の有無・内容に関する部分(4の(1))、
裁量の行使として公益を考慮できるか・その重み付けに関する部分(4の(2))、
理事長(行政庁としての)が公益を重み付けを誤った(過大評価した)ことを示す部分(4の(3))、
裁量の逸脱・濫用したものであり違法であるとの結論を示す部分(4の(4))
以下、主に「2」で判決のテキストについて書いた上で、「3」で少しだけ判決全体について書くことにします。
2
a
裁量の有無・内容に関する部分(4の(1))の結論は以下です。
その理由として以下が挙げられています。
コメント
判決は、法律の文言と処分の性質(専門的・政策的判断)を踏まえて裁量を導いており、オーソドックスな判断だと思いました。
判決は、裁量の範囲について特に述べていません。理由②③を合わせて読むと一定の内容は読み取れるように思いますが、いずれにしても、重み付けの審査を行う場合、端的に特定の重み付けが趣旨に照らして合理的か(不合理でないか)を検討すれば十分であり、かつ、そのほうが裁量全般ではなく特定の事情の特定の評価を問題にできるといった意味で精緻であるため、裁量の範囲のような中間項を設ける必要性は小さいのかもしれません。
【追記】言い換えれば、裁量全般の広狭を問題にする考え方は、単純な社会観念審査の時代のものであり、最高裁が社会観念審査を判断過程審査に具体化した現在では、個々の重み付けの合理性の問題に解消してしまってよいのかもしれません。
b
裁量の行使として公益を考慮できるか・その重み付けに関する部分(4の(2))の結論は以下です。
その理由として以下が挙げられています。
上記①(公益を考慮できるか)に関して
上記②(重み付け)に関して
「本件助成金は、公演、展示等の表現行為に係る活動を対象とするものであるところ…、芸術的な観点からは助成の対象とすることが相当といえる活動につき、本件助成金を交付すると当該活動に係る表現行為の内容に照らして一般的な公益が害されることを理由とする交付の拒否が広く行われるとすれば、公益がそもそも抽象的な概念であって助成対象活動の選別の基準が不明確にならざるを得ないことから、助成を必要とする者による交付の申請や助成を得ようとする者の表現行為の内容に萎縮的な影響が及ぶ可能性がある。」
「このような事態は、本件助成金の趣旨ないし被上告人の目的を害するのみならず、芸術家等の自主性や創造性をも損なうものであり、憲法21条1項による表現の自由の保障の趣旨に照らしても、看過し難い」
コメント
判決は、①(a)本件助成金の公益性から、(b)一般的な公益が害されることを考慮すること自体は認めつつ、②(a)「これを交付するとその対象とする活動に係る表現行為の内容に照らして一般的な公益が害されるということ」による交付拒否は、表現行為の内容に対する萎縮効果が強く、(b)このような事態は本件助成金の目的(文化の向上)を害し、かつ、表現の自由の保障の趣旨に照らして看過し難いことから、(c)上記事情を重視しうるのは、公益が重要であり、かつ、当該公益が害される具体的な危険がある場合に限られることを導いています。
②は、直接的には、助成対象たる活動に係る「表現行為の内容に照らして」一般的な公益が害される場合を対象としています。表現の自由の制約に関して、一般に、内容による規制と内容中立的な規制の区別がなされていますが、最高裁は、本件助成金の交付拒否による萎縮効果についても同様の観点を持ち込み、内容による交付拒否について特に強い萎縮効果を認めたのだと思います。
②の「一般的な」が何を意味するのかはこの部分だけからは分かりませんが、「公益」のイメージを形作ってきた(?)取消訴訟の原告適格に関する一連の判例を想起したとき、「個人の権利としても構成することができない」くらいの意味なのではないかと思います。
②の「重視」が何を意味するのかはこの部分だけからは分かりませんが、「当てはめ」も考慮すると、結論を左右するような態様で考慮することといった意味なのではないかと思います(「判決に影響を及ぼすべき」のように)。
②に関し、判決は、表現行為の内容に対する萎縮効果を、本件助成金の目的(文化の向上)と表現の自由の保障の趣旨の両方の観点から問題としています。個人的には、近時の最高裁においては、実際の判断過程においては当然憲法上の権利の制約・その正当化を考慮しつつ、判決理由においては個別法の解釈として解決できるものは個別法の解釈で解決するという考え方が確立しつつあると考えていたため(堀越事件と千葉補足意見、タトゥー医師法違反事件と草野補足意見、ディオバン事件と山口補足意見など参照)、表現の自由に明示的に言及していることは意外に感じました。表現の自由に関しては、平成後半は大きな事件が少なかったところ、2010年代後半になり、「表現の不自由展かんさい」に関し大阪府の指定管理者が施設使用許可を取り消し、その執行停止が申し立てられたり、「あいちトリエンナーレ」に関し名古屋市が負担金の支払いを拒否し提訴されたり、金沢市庁舎前広場事件で政治的中立性の評価が問題となったりと、対話を拒否する政治的雰囲気の余波が裁判所にも少し遅れて押し寄せた感じがあり、それらに対する裁判官の問題意識が反映されたという背景が、もしかしたらあるのではないかと思います。
②に関し、一定の処分をすること又はしないことにより影響を受ける権利の性質・その影響の程度(制約というと限定的なので「影響」と書いています)は、従来の教科書的には、主として裁量を導く場面での考慮要素でしたが、本判決は、「重み付け」を制約する要素として位置づけています。aでそのほうが精緻なのかもしれない旨書きましたが、さらに、そのように位置づけることで権利に至らない利益(ここでは本件助成金の目的である文化の向上。薬物乱用防止も公益ですが、文化の向上もそれはそれで別の公益です)と並べて使いやすいという面もあるのかもしれません。
c
理事長が公益を重み付けを誤ったことに関する部分の結論は以下です(4の(3))。
(前提として、判決文によれば、「被上告人は、本件出演者が出演している本件映画の製作活動につき本件助成金を交付すると、被上告人が「国は薬物犯罪に寛容である」といった誤ったメッセージを発したと受け取られて薬物に対する許容的な態度が一般に広まるおそれが高く、このような事態は、国が行う薬物乱用の防止に向けた取組に逆行するほか、国民の税金を原資とする本件助成金の在り方に対する国民の理解を低下させるおそれがあると主張」しています。)
①「薬物乱用の防止という公益が害される具体的な危険があるとはいい難い。」
②「被上告人のいう本件助成金の在り方に対する国民の理解については、公金が国民の理解の下に使用されることをもって薬物乱用の防止と別個の公益とみる余地があるとしても、このような抽象的な公益が薬物乱用の防止と同様に重要なものであるということはできない。」
③(①②から公益が害されることを重視することはできないところ)「前記事実関係等によれば、理事長は基金運営委員会の答申を受けて本件内定をしており、本件映画の製作活動を助成対象活動とすべきとの判断が芸術的な観点から不合理であるとはいえないところ、ほかに本件助成金を交付することが不合理であるというべき事情もうかがわれないから、本件処分は、重視すべきでない事情を重視した結果、社会通念に照らし著しく妥当性を欠いたものであるということができる」
上記①(薬物乱用防止に関し具体的危険がない)の理由として以下が挙げられています(②③は特に上記以上の言及なし)。
コメント
判決は、表現行為の内容に照らして一般的な公益が害されることを重視できるのは、当該公益が重要かつそれが害される具体的危険がある場合に限られるとしましたが、①薬物乱用防止に関しては、公益としての重要性は認めつつ、被上告人が主張する因果経過に即して、それが害される具体的危険性がないとし、②国民の理解に関しては、抽象的であるとして重要性を否定し、それらの上で、③理事長が基金運営委員会の答申を受けて内定をしていた経緯から、出演者の逮捕等の過大評価を認めています。
①に関し、行政庁側が主張する因果経過(公益が害されるメカニズム)を丁寧に検討し、その発生率が具体的危険のレベルに至っていないことを指摘するやり方は、薬事法違憲判決に似ているなと思いました(同判決の結論を決めたのは許可制を相当とするような関連性ないし適合性がなかったことであり、LRAの存在ではありません)。
②に関し、国民の理解に関する記述には、bで書いたのと同様、裁判官の問題意識が反映されているのかもしれないなと思います。
③に関し、最高裁の判断に目を瞑って本件を見たとき、内定をしていたことがどのように影響するのかが問題となるだろうと思います。映画製作には資金調達が必要であり、一度決めた助成金交付を後からなかったことにするのはひどいのではないか(発想としては宜野座村工場誘致事件など)という議論はありえますし、一方で、行政処分というスキームが採用されている以上、授益的処分をする意向を示したからといって権利が発生するわけではない(発想としては東京都内定取消事件など)という議論もありえます。判決文は、内定により裁量が制約されるとはしておらず、後者と考えられるものの、過大評価と妥当性欠如の因果関係(あるいは過大性そのもの)を認める根拠として位置づけています(ただ、そうすると場合によっては過大評価の立証は難しいことになります。そのための理由提示義務なのだろうと思いますが)。
3
最後に少しだけ判決全体について。
複雑な問題について最高裁が従来発展させてきた法理に依拠してリベラルかつクリアな回答を与えたという意味で、経産省トイレ使用制限事件を想起しました。
本判決は、近時様々な場面で問題となってきた表現行為を対象とする給付について、判断過程審査を厳格化する形で統制を試みた、重要な判決として位置づけられるだろうと思います。
「表現の自由の趣旨に照らしてより踏み込んだ重み付け審査を行った」という理解は、それ自体として不適切とは言えませんが、判決文は内容規制相当の場合に限定したロジックを採用していること、表現行為の内容の萎縮は助成金の目的をも害するとしている(むしろそれが厳格な審査を導いた主たる要素だと思われる)ことには留意する必要があるのではないかと思います。
本判決を金沢市庁舎前広場事件と比べた場合、問題となった給付対象物が、表現行為を支援することを本来の目的としているか、他に本来の目的を持っており、表現行為の支援にも使えるものなのかが審査密度を分けていると考えられます。
4
Twitterでの議論を見ていて、本判決の新規性について若干思ったことがあるので追記します。
判断過程審査は、呉市中学校施設使用拒否事件において、社会観念審査の一手法として位置付けられましたが、「重視すべきでない事情」かどうかはどのようにして決まるのか、どのような場合に「重視した」とされるのかは明らかでなく、その結果、判断過程審査もまたブラックボックス性を払拭されていなかったと思います。実際、同判決は、考慮事情が多かったこともあり、関係する事情を列挙した上で、「上記の諸点その他の前記事実関係等を考慮」して過大評価・考慮不尽である旨述べる構造になっており、結論部分を除いて社会観念審査との距離はあまり大きくないように見えます。そうすると、判断過程審査で審査密度が向上するかどうかは、「当てはめ」にかかっているのだと思います。
また、裁量審査において被侵害利益の重大性を考慮することは、例えば昭和女子大事件、神戸高専事件において示されていましたが、両事件では教育目的上必要な考慮を尽くしたどうかが主たる問題となっていたので、他事考慮型のケースで被侵害利益の重大性をどのように「使う」かについてはあまりヒントを与えるものではありませんでした。
本判決は、このような状況の下で、他事考慮型のケースについて、助成金の目的と表現の自由の保障の趣旨を参照することで、ある(助成金の目的からすると関連性の薄い)事情を重視しうる条件を示し、その当てはめを行うという形で、重視すべきでない事情を重視したことを比較的客観的に(≒検証可能な形で)示したという意味で新規性があるのではないかと思います。